葬列から告別式へ

大正時代になると、都市での大型葬列に対して「私事のために交通を妨げていいのか」などとマスコミにも批判の論調が目立つようになり、明治17年制定の「墓地及埋葬取締規則」によって、市街地での埋葬・火葬が制限されました。

その後、急激に葬列廃止の動きが進むことになり、代わって登場するのが告別式です。最初は1901(明治34)年の中江兆民の葬儀であると言われています。地方ではまだ「野辺の送り」と言われた葬列が基本でしたが、東京、大阪といった大都市では葬列が急激に減少し、代わって霊柩車、告別式が登場することになるのです。

葬列の廃止を葬祭業者は「分相応の葬列をしないということは人道にもとる」などと反撃しましたが、時代の流れを変えることはできませんでした。

霊柩車使用の最初は不明ですが、はっきりとした記録があるのは大正6年、大阪の有力な業者です。当時は米国の霊柩車のビム号を輸入したようです。米国の霊柩車は派手なものが多く、当時の輿と共通するものがあったのでしょう。葬列がなくなり、全国的に霊柩車や告別式が登場してくるのは戦後になってのことです。1920年代には日本人に合うようにと霊柩車を和風の唐草模様にアレンジし、宮型霊柩車が登場することになります。

大都市における告別式の登場により大きく変化したのが祭壇です。それまでは現在の枕飾り程度のものでしたが、これが前机となり、さらに2段、3段、段々のものや興を上に配するなど、現在の祭壇の形が生まれてきます。その後六灯(元来は葬列の道具である六道)などの新しい燭台、春日燈籠など祭壇道具の原型が作られ、専門職人も誕生しました。

昭和10年前後までは大都市でも葬列は細々残っていましたが、戦時体制になるとこれも消え、葬儀業界も戦時下に置かれることになります。昭和17年には六大都市の霊柩運送事業者の戦時合併が、また葬祭業者、葬具の製造、販売業者の統制組合化が行われました。霊柩車の燃料も不足し、葬具の供給も困難になります。

戦死者を駅で出迎えての慰霊祭も行われ、遺体収捨作業にも携わるところとなり、葬祭業者やその従業員が召集されることもありました。戦争の最終局面においては告別式どころではなく、きちんとした葬儀を施行する機会は失われました。

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